でも生きてる まだ生きてる

生き辛くても頑張って生きてる私の記録

ブログ再開の理由

最初にブログ始めたのは、鬱が悪化したとき。

出来なかった事じゃなくて、出来たことをカウントしなさいって言われたから、備忘録的に出来たこと書いてみようかなって思った。

PCとか手帳でもよかったけど、なんとなく管理しやすいような気がして。

誰にも読まれないと思ってたのに読んでる人がいて怖くなってソッコー止めた。


再開した理由は、自分に何か有った時、疎遠になっている家族との溝を埋めるため。

死に急ぐつもりはないけど、突然死だって有り得るし、そんな時、家族が空白の時間について知りたくなったら知れるように。

知りたくなかったらその方がいいんだけど、何考えて生きてたんだろうとか、勝手な想像で悶々とはさせたくない。

遺言がわりにブログの存在を伝えるつもり。


多分一般的な価値観や基準だと、私の人生は"可哀想"になってしまいそう。

でも、私は、自分なりにきちんと幸せに生ききりましたよってゆうのは一番伝えたいこと。ただ、それだけ。

年功序列

「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」

「お姉ちゃんなんだから弟妹の面倒をみなさい」

昔はよく聞いた言葉、今でもよく言われてるかは分からないけど。


子供のうちはいいよね、たった一才差の年子でも多分上の子の方が能力的に出来ること多いから。

でも、"お兄ちゃん"、"お姉ちゃん"って一生付き纏う。

大人になったら年齢差=能力差ではないのだけれど、50代60代になっても奢ってくれるお兄ちゃんには"ありがとう"で済むけど、弟に奢られるお兄ちゃんは卑屈になってしまう気がする。


アメリカのドラマ観てると、兄弟でも名前で呼びあってるよね。

だとしたら立場は対等で、困ってる方が躊躇せずに助けを求められるのかな?、だったらいいな。


フィリピンの友達を見てると、援助とか出来る人が自然にやってる。

立場とか年齢とか関係なくね。

援助受けた方も卑屈にならず、ありがとうで終わり。

その代わり自分が何か出来るときにはやるよ、みたいなね。

善行を積めば、神様が見てるからみたいな宗教的な意味合いもあるみたいだけど、助ける方も助けられる方も気負わないのはいいかな。


なんだか纏りのない文章になってしまったけど、年功序列の世の中って歳を取れば取るほど相談相手も減ってきて厳しいなって思った。

二十歳の女の子の悩み相談先はいくらでも有るけど、50代60代が同じ悩み相談したら「いい歳こいて甘えるな、ばか」終了。みたいなね、精神年齢二十歳だから同じような相談してるんだけどね、きっと。


年下とか部下が上司になってやりにくいのも、日本の必要以上の年功序列文化の弊害だと思う。年長者を敬うのはいいことだと思ってるけど。


↑が結論、以下はおまけ。なんとなく言いたくなったので書くけど、以下の事言いたくてここまで書いた訳ではないのでね。


飛躍しすぎなのは分かるけど、大阪や埼玉の事件、当事者の年齢で相談先が減少してしまうのも一因ではないかと思うのです。

もちろん、もっと大きな要因は有ると思うけど、ただ、歳を取っても気負わず物事を相談する先が色々有ったらとは思うのです。

結果主義

もうひとつの死にたい理由は、多分私が結果主義者だから。

本当は物事は過程が大切らしい。

試験に受かっても受からなくても、一生懸命勉強した内容とか、努力とか人生のプラスになるよ、みたいなね。

でも私は結果主義だから、ほとんど身に付かない一夜漬けで試験を乗り切るタイプ。


一度きりの人生だから、楽しまなきゃって言うけど、それも過程だよね。

人生の結果(ゴール)は"死"だと思ってるから、そこに行き着くまでは楽しくても苦しくてもどうでもいい。

もちろん楽しい方がいいけど、そのために努力が必要なら、その労力はより理想的な"死"を迎えるために使いたいんだよなあ。


一般的には自然死がベストなんだろうけど、それだと理想的な死は迎えられなさそう。

それより、自分でベストな方法を選びたいなあ。

後、結果はなるべく早く出したいって思うのは、そんなにおかしなことじゃないよね。